季刊まちりょくvol.16
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11食器棚などもデザインしています。そのタウトが日本に来たのですから、じかに会って情報を得たかったんですね。 タウトが日本に来た1933(昭和8)年の9月に、工芸指導所創設5周年の成果を発表する展覧会が東京日本橋の三越本店で開かれました。そこにタウトを招待したのですが、その展覧会を見て、タウトはものすごく酷評しました。いいものはほとんどない、と。酷評された工芸指導所の所長、国くにい井喜きたろう太郎(※4)さんという方はそのとき海外視察から戻ってきたばかりでした。実は工芸指導所の目的のひとつは、ヨーロッパやアメリカに向けてものづくりをして買ってもらうという輸出振興。所長の国井さんはそれを指導していかなければいけない立場だったので、世界の最先端を走っていたドイツ工作連盟、そのメンバーであるタウトにアドバイスを受けようと決心したわけです。□工芸指導所でのタウトの姿勢 タウトが工芸指導所に着任したのは1933年の11月。タウトは正式に国から頼まれて赴任したので、真剣に提案やデザインの指導に取り組みます。しかし、年度途中での特別受け入れです。指導所側では前年度に立てた計画通りにやらなければいけない。それに対するタウトの批判もあり、またタウトは、外国に迎合したり、きちんとデザインのできていないものをつくるのは間違いで、それをすべて是正していかなければならないと厳しい。日記にもそうした批判が出てきます。 そういうわけで、タウトは工芸指導所のあり方を嫌ってさっさと辞めてしまったと理解されているようですが、そう単純ではないんです。工芸指導所を辞めた後に、工芸指導所と国立陶磁器試験場の展覧会があるんですが、そのときタウトはいいものがあるとちゃんと評価しています。工芸指導所では、もっと長くタウトに指導をお願いするつもりだったし、タウトも最初は3か月という約束で来るわけですが、その後も工芸指導所の仕事をやってもいいと思っていました。タウトが怒っているということは、それだけ真剣に指導しようとしたということなんです。□タウトの指導とその後 工芸指導所でタウトの助手に指名されたのは、のちにインテリアデザイナーの草分け的存在となる剣けんもちいさむ持勇(※5)でした。その剣持たちは、タウトの指導のもとに日本人の身体に合った木製の仕事椅子の研究を続け、一緒にテストチェアをつくって実験を重ねました。タウトが去った後にその椅子を完成させています。また、他のチームは、照明についてのタウトの提案文書を絵にして、壁や天井、床などの照明器具とはどういうものかを示し、卓上照明器具を完成させました。タウトが指導所にいたのは出張などを挟んだので実質は2か月ほど。タウトの教えも深かったけれど、学ぶ側の意欲もすごかったと思います。 タウトは工芸指導所にいる間、東京や京都、岩手の工房を訪ねる出張に出て、工芸品のなかで当時の日本で使えるもの、あ

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